最高顧問
きのうはアフラック日本社の初代社長を勤められた大竹さんが
岡山に来られました。
昭和49年の10月に旧大蔵省から保険会社の認可を取り、営業が
始まりました。
ちなみに弊社グレートは翌年の昭和50年の四月からアフラック代理店として
岡山で初めての代理店としてスタートしました。
当時アメリカでもまだ生まれて13年ばかりの実績もない保険会社
だったそうですが、「がん」に特化した保険会社として
大竹さんには運命を感じる出会いがあったと言います。
がんになられた人を救いたいという思いで当時手取り1000万あった保険代理店
としての収入を捨て、無給で始められたそうです。
米国本社からも月給60万円(当時で160万円相当)を支給するからと
言われたそうですが、あえて断わったそうです。
家族からの猛反対も(当然のことながら)受けたが、なんとか
説得し旧大蔵省に二年半日参し認可をいただいたそうです。
現在までの約38年のアフラックの急成長は大竹さんにも
予測が出来なかったと言われます。
ただ、そこにあったのはアフラックを世界で一つしかない
会社にしたい、という思いだったと言います。
「生命保険ではなく健康保険を売りたい」という思いが
あったと言います。
またアフラックの成長は「大きなリスク」を取ったからとも
言われました。
「大きなリスク」とは・・・。
販売するのは「がん保険」のみ!
最初の10年間は「がん保険」しかなかったんです。(あえて)
時代を先取りする感覚と人のお役に立つという使命が
この方を動かせてきました。
これからの日本のため若い人の感覚がとても大事、と
言われます。
未来ある若者に使命をもってもらうため、人間的に尊敬される
人を育てるため大竹さんは自らの時間を費やしている
とのことです。
でも大竹さんの見つめているところはもっと大きいです。
「今は地球村です。どこの国もどこの地域もないんですよ。
一つなんです。」
大きいな~。
人の思いに限界はないな~。
ワタシももっともっと視野を広げなきゃ。
久々にお会いした最高顧問はやっぱり最高でした!
岡山に来られました。
昭和49年の10月に旧大蔵省から保険会社の認可を取り、営業が
始まりました。
ちなみに弊社グレートは翌年の昭和50年の四月からアフラック代理店として
岡山で初めての代理店としてスタートしました。
当時アメリカでもまだ生まれて13年ばかりの実績もない保険会社
だったそうですが、「がん」に特化した保険会社として
大竹さんには運命を感じる出会いがあったと言います。
がんになられた人を救いたいという思いで当時手取り1000万あった保険代理店
としての収入を捨て、無給で始められたそうです。
米国本社からも月給60万円(当時で160万円相当)を支給するからと
言われたそうですが、あえて断わったそうです。
家族からの猛反対も(当然のことながら)受けたが、なんとか
説得し旧大蔵省に二年半日参し認可をいただいたそうです。
現在までの約38年のアフラックの急成長は大竹さんにも
予測が出来なかったと言われます。
ただ、そこにあったのはアフラックを世界で一つしかない
会社にしたい、という思いだったと言います。
「生命保険ではなく健康保険を売りたい」という思いが
あったと言います。
またアフラックの成長は「大きなリスク」を取ったからとも
言われました。
「大きなリスク」とは・・・。
販売するのは「がん保険」のみ!
最初の10年間は「がん保険」しかなかったんです。(あえて)
時代を先取りする感覚と人のお役に立つという使命が
この方を動かせてきました。
これからの日本のため若い人の感覚がとても大事、と
言われます。
未来ある若者に使命をもってもらうため、人間的に尊敬される
人を育てるため大竹さんは自らの時間を費やしている
とのことです。
でも大竹さんの見つめているところはもっと大きいです。
「今は地球村です。どこの国もどこの地域もないんですよ。
一つなんです。」
大きいな~。
人の思いに限界はないな~。
ワタシももっともっと視野を広げなきゃ。
久々にお会いした最高顧問はやっぱり最高でした!